立正大学公開講座第二回目。
ことばと表現ー源氏物語と仮名文字の関係ーの開幕だ。

前回とはうって変わってトピックは古典である
中高時代に勉強した記憶で立ち向かえるか少々不安だが、講義やいかに、、

ゲスト、藤井先生 対談相手は根本先生

本日のゲストスピーカー清泉女子大学教授の藤井由紀子先生。
最近ではNHK Eテレの「趣味どきっ!」シリーズにて「源氏物語の女君たち」という番組で講師を務められたようだ。

一方、対談相手の根本先生も源氏物語にゆかりがあり、昨年の大河ドラマ「光る君へ」にて文を書くシーンの書道指導を行ったとか、、

解釈者の藤井先生、表現者の根本先生。今宵も面白い講義になりそうだ。

もののあはれを代表する作品、源氏物語

講義のテーマは「もののあはれ」である。
単純明快に理解することが困難な「もののあはれ」という概念を紐解くために多角的な視点で講義は進んでいった。

まずは本題の「もののあはれ」に行く前に、「もののあはれ」をよく象徴するといわれる源氏物語の概要が紹介された。
平安時代、つまり今から1000年前に書かれた長編物語。

本居宣長はもののあはれを探求した


どうやら、元をたどれば源氏物語を「もののあはれ」をよく表すと主張し始めたのは
江戸代の国学者本居宣長だそうだ。

本居宣長は源氏物語の中にある光源氏のセリフ
「物語はよくも悪くも誇張して書かれるべきという」主張を援用して「もののあはれ」の存在を定義した。

宣長に言わせれば「もののあはれ」=多種多様な心の様相をさす。
そしての多様さは「感じる」、つまり心が動くことで実現される。
ゆえに、物語は大げさに書かれるべきだ(光源氏全面支持笑)とのこと。

この文に関して言えば「もののあはれ」それ自体というよりは物語の表現形態に関する主張という点でやや論点はずれている。
ただ、この「もののあはれ」=心が動くということがどうやら重要なようだ。

さらに元をたどれば、宣長が「もののあはれ」を考えるきっかけは初の勅撰和歌集にまでさかのぼる。


初の勅撰和歌集それは古今和歌集である。

少し補足として古今和歌集の話をば。要するに天皇の命令で、日本のベストオブ最強和歌集というわけだ。

パソコンがない時代に和歌を集め、時系列、テーマ別に分類し数年かけてこの和歌集を作成したというのだから驚きを隠せない。


話は戻り本居宣長が「もののあはれ」を考えるきっかけとなったのはこの古今和歌集の序文だ。
それはつまりやまとうた(和歌)はすべてを動かすということである

すべてとは?天地、目に見えない鬼神、男女の仲、勇ましい武士の心

あえて勅撰和歌集の序文「和歌」を「やまとうた」と表現することは、
当時漢文に比べて地位の低い和文の地位向上という強い思いがあったんでは?という考察も展開された。

そもそも、仮名文字と漢字の違いは表音文字表意文字かという話である。

「うた」を表音文字である仮名文字で表現すること、
それすなわち口から出た「うた」の躍動感をそのまま閉じ込めて表現できるということである。

ゆえに、心を動かすことができる「やまとうた」は仮名文字で書いた方が
「うた」が書かれた当時の感動がそのまま伝わるだろうという論理だ。

お気づきかもしれないが
ここから講義の主題は「もののあはれ」から少しずつ仮名文字へ焦点が当たっていく、、


「もののあはれ」と女性らしいふるまいの間で

と、その前に「もののあはれ」に対し源氏物語の作者紫式部がどう感じていたのか?
という考察でとても興味深いものが紹介されていたので少しお付き合い願いたい。

これは「紫式部日記」というライバル清少納言の悪口をかきまくる作品と源氏物語の一幕を比較したお話だ。

「紫式部日記」にて紫式部は清少納言のことを
もののあはれを積極的に求めて、その瞬間を一瞬たりとも見逃さない」と評し、
そういう人にはなるべきではないと書いている。

一方でが画像右側「源氏物語」夕霧巻では
「女ほど、身のふるまい方が窮屈であはれなものはない。 物の情趣やその時々の風情あることに対しても、知らないふりをして、引きこもって入れば、、、」とある。

講義では、紫式部が清少納言の悪口を書くのは、
紫式部が理想とする生き方を清少納言が体現できているからという考察が紹介された。


加えて、日記では悪口を書いているが、物語ではキャラクターを媒介して羨望のまなざしを表現するところがなんとも人間味があって良い笑

正直、文学的才のある女性でも平安貴族社会では生き辛かったのかぁとも驚いた。
自分の中での平安時代は男も女も手紙の才があれば、
その能力を元に平等に扱われると思っていたからだ。

必ずしもそうではないらしく、ここに当時の女性のあるべき像を縛る構造が存在していた
というのは新しい気付きである。

最終章:源氏物語と仮名


講義も最終章へ差し掛かり、ここからは源氏物語における仮名文字の表現が取り上げられた。
一つ盛り上がった話は「源氏物語」若紫巻に出てくる、
幼き若紫が書いた仮名文字を中心に光源氏とのやり取りが行われるシーンである。

若紫は自らが書いた字を失敗したといって隠すが、光源氏がその字を見ると
「とても幼いけれど、成長したその先が見えてとてもふくよかに書いてある」と評する笑

いや、さすがにこれアウトでは?(それは後ほど)

講義では書道家の根本先生から、そもそもなぜ字がふくよかになるのかという話が解説された。
端的にいえばそれは筆が寝ているからである。

正しい書き方としては筆を二本指でもって、紙に対して筆を立てて書くとうまく書けるのだとか。

それはそれとして、ふくよかの意味は議論に値すると思う。

編集長はふくよかな字は、書かれた字本体も表すし
成長した若紫の姿も表すダブルミーニングと捉えました。

しかし、後者に関しては講義で一切触れられなかったので、
光源氏をこえる想像力の変態は私かもしれません。

いや、でも平安時代って今よりふくよかな人がモテると聞いたことはあるし、
和歌の掛詞の文化を考えればもっともらしい洞察と思うのだけどなぁ笑

まとめ



数日後、ふと同僚とも議論になったのだが、筆跡や手紙のうまさに応じてモテるという世界線は面白くないか?
見た目も顔も見えないが、文字から人柄を想像するという世界。

では今好きなひとにポエムのような手紙をポストに入れたらどうなるか?間違いなく捕まるだろう。

この異様ともいうべき断絶に社会の大きな変化が存在していると考えられる(ま。物理的に1000年たってますし笑)

個人的には現代でも社会的な地位、富を持つ人間を求める人間の本質は変わっていないと思う。

平安時代は文を媒介してその素質が伝わる、予測できるということで、
現代は顔も見えるし、文字の代わりに貨幣が地位のシグナルとなっていると
そう理解した。

私の筆跡は魅力的だろうか?であるならここにメッセージを残していただきたい
次回もお楽しみに。

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