
本日は第四回「ことばと境界」であった。
うーん。この授業のレポートは極めて難しい笑
というのも、配布資料には20%くらいしか触れず、話があっちこっちいったからだ。
ゲスト
本日のゲストは二人いたのだ。
一人は柴田元幸先生、アメリカ文学の翻訳を多く手掛ける。
もう一人はハーン小路恭子先生、本高原でメインの題材となる「どこかで叫びが ニュー・ブラック・ホラー作品集」
の監訳を務められた。
前回までは基本的にゲストが一人で講演し、その後の質疑応答で対談する形式であったが、
今回はゲスト+立正大の先生の三人で最初から対談という形式だった。
恐怖の対象
本講義での一貫したメッセージと言えば、
近年アメリカにおいては黒人ホラー、ネイティブアメリカンホラーがアツいということだ
それは
講演では近年「ゲット・アウト」、「アス」、「NOPE」でその名をとどろかせるジョーダン・ピールが編集した短編集
「どこかで叫びが ニュー・ブラック・ホラー作品集」が紹介された。
こちらの本の日本語版を三人で翻訳されたそうな。
黒人ホラーというジャンルは現代アメリカでは少々特別な意味を持つようだ。

一つ、柴田先生の印象的な具体例があった。
「車を運転している男は何かに気付く
明らかに前時代に生ける馬に乗ったネイティブアメリカンだ。
しかし車のスピードが速すぎてもう間に合わない。 ぶつかる!
そう思い目を開けると、後ろにその馬とネイティブアメリカンが座っているではないか」
この話において「男」が白人であればそれはホラーであり、男がネイティブアメリカンであればファンタジーに変わるという話だ。
つまり?
恐怖というのは文脈によって意味が変わる相対的なものに過ぎない。ということだ
自分が今まで経験してきたこと、見知った過去の歴史によって目の前のシーンの意味付けが変わるというのは面白い。
自分に巣くう恐怖
注目すべきは恐怖は、自分がよく知らなくて「異質」なものに向けられるという構造だ。
ステレオタイプ的な話をすれば
「白人にとって、黒人は異質なものであった。
ゆえによくわからないから彼らを恐れ、攻撃するという過去があった。
一方、黒人にとっては人種の異質性だけで攻撃してくる白人は恐怖そのものである。」
しかし、この短編集ではその構造があっという間に反転するという意外性をはらんでいる。
例えば1番、黒人警官のカールだ。
米国では白人警官から黒人に対して不当な警察権力の行使という事件が多発している。
という背景を差し置いて、「カールは力を行使する側に立っている」という反転だ
誰にとって何が怖いのかという構造があっという間に壊れてしまう。
こうした視点の展開の中で私たちが恐れるものの正体、そこに見え隠れするステレオタイプが明らかにもなるということか、、

総括
うーむ。
正直もう少し明確な軌道が見えたらうれしかった、、
小説や映画における恐怖の構造でもいいし、テクノロジーと翻訳家の関係性の変化でもいい。
深ぼったら面白そうな原石は何個もあったが、どれも発散して終わってしまった笑
いやむしろ、文学や翻訳という概念が私にとっては異質なのだろう。
この講義を楽しめるほど知識と経験がまだない気もした。
この、モヤモヤもまた解決される日が来るの願って今回のレポートは終了とする。


